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「よし、それでは預つとかう」
「高間さん、ひとつ何とかして引上げさせて下さい。このまゝでは――」
と、加藤巡査はくり返した。
前には俄かに急になつた路面がいつのまにか狭せばまつて来た山合ひにぐつととつついているのが見えた。房一はうつすらと汗ばんでいた。だが、彼の見たものは路や山肌ではなかつた。彼の前面には何かしら温気うんきのある靄もやに包まれたやうな、不確かな、だが一歩ごとに物の形の明かになつて来る、汗ばみながらその方へ突進したい気を起させる、あの漠とした未知の世界があつた。
見る見る癇癪かんしやくを起しさうになつた練吉は、その時ふと或ることを思ひ出して黙つた。
かりるに当って女房が挨拶に行ったら、温泉のぬるいことを例外なく念を押して、
だが、やつぱり戻らないで、しきりとこつちを見ながら行く。
房一は刃物で突く恰好をしてみせた。
今彼が得て帰つた「医師高間房一」としての地位は、河原町に対する彼の野気を示すに恰好なものであつた。帰郷以来彼を迎へた河原町の人達の眼に、房一はその証拠を見た。だが同時に、彼が押して得た一歩か二歩を隙さへあれば押しもどさうとするやうな色も見分けた。若し彼が何かの意味で失敗すれば、彼等はすぐに嘲笑に転じ、又あの鈍い圧迫の下敷にして彼の気力を根こそぎにしてしまふだらう。
「わたし、あれらしいのよ」
と、父親の顎のあたりに又目をつけた。
その時、練吉はぐつと盃をつきつけた。