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間もなく神原直造は一種段取りのついた慇懃いんぎんな荘重さともいふべき様子でゆつくりと来客の居並んだ前へ進み出て挨拶した。彼には紋付の羽織に袴といふ形がいかにもよく似合つていた。その稍角張つた肩のあたりにも、それから、一体に老いて強さはなくなつているが、まつ直ぐな鼻筋だの、その上にかつきり線を引いたやうな白毛まじりの太い眉だのの上には、ちやうど彼の身につけた袴の襞ひだと同じやうに、一種云ふべからざる古雅な端正さがあり、それは同時に低い枯れた声音こわねの中にも響いた。
房一は患者の前にもどつて来た。
「さうなんです。ちやうどいゝ案配でした」
上下のシャツだけといふ奇妙な恰好で房一が台所に降りかけた時、はじめて彼はそこに誰か立つているのに気づいた。
別に会ふ気がなかつたから、と云ふ代りに、
と、云つたまゝ直造は首を落して聞き入つていた。房一が云ひかけた時、直造の老いてはいるが練ねれた頭は即座にその意味を悟つた。そして、自分の手落ちだつたことを認めていた。が、この不意打は少からぬ打撃でもあつた。彼はこれまでの生涯に自分が主人役をつとめて来たこの家の中で、未だかつてこんな思ひがけない反撃を喰つたことはなかつた。いや、どこの家の集りでも見たことはない。すべては古いしきたり通りに、一定の型通りに行はれ、それが乱されたことはなかつた。それは彼の身体にすつかり滲みこんでいるあの雅致のあるゆつくりとした段取りのやうに、永い間に築かれ自然と支へ合ひ、ゆるぎのない目立たぬ日常の確信といつた風なものになつていた、――それがこの瞬間に思ひがけない形で動揺するのを覚えた。
どこかで、「営林署だ」といふ声が聞えた。そして、黒い人影は左手へ向けてぞろぞろと走つて行つた。何か叫び声のやうなものがその方で起つていた。
かうして、やつとこさ初秋の爽かさがやつて来た。が又、風だ。生温い、暑さのぶり返しを思はせる蒸し蒸しした空気、雨、それから青空、微風、快い乾いた空気、――こんな風にためらひ、一寸後もどりをし、又急ぎ足で駆け、季節は人々に型通りの見込をさせまいとするかのやうに見える、がその足どりの中には何か大まかな順調さが、あの自然といふものの単純な変化が歴然と現れて来る。人間が見込を外はづされてぽかんとしている間に、いつしか十月に入り、十月も終りに近くなり、あの快い乾いた、いくらか冷えを感じさせる明あかるい空気が、毎年のことでありながらかつて一度もなかつたと思はせるほど、又一月や二月ではなく、永久につゞくと思はれるほど、来る日も来る日もつゞいていた。
「うむ」
「何しろ、わや苦茶だ」
房一は早くから競馬を見に行つていた。観覧席で相沢に会つたので挨拶した。訴訟の話を聞いた頃からずつと会はなかつたのである。相沢はあの特長のある黒味のひろがつた目で、やはり馴れ馴れしげにぐつと身体を近寄せて房一を眺め、彼の馬が来ていることを教へた。席が混んでいたので、それきり傍へ寄る機会がなかつた。休憩のとき、葭子張よしずばりの便所へ立つたかへりに、ちやうど相沢が向ふからやつて来るのにぶつかつた。彼はカーキ色の乗馬ズボンに拍車のついた黒革の長靴をはいていた。歩いて来るときに、その拍車が鳴つた。
けれども半之丞は靴屋の払いに不自由したばかりではありません。それから一月とたたないうちに今度はせっかくの腕時計や背広までも売るようになって来ました。ではその金はどうしたかと言えば、前後の分別ふんべつも何もなしにお松につぎこんでしまったのです。が、お松も半之丞に使わせていたばかりではありません。やはり「お」の字のお上かみの話によれば、元来この町の達磨茶屋だるまぢゃやの女は年々夷講えびすこうの晩になると、客をとらずに内輪うちわばかりで三味線しゃみせんを弾ひいたり踊ったりする、その割わり前まえの算段さえ一時はお松には苦しかったそうです。しかし半之丞もお松にはよほど夢中になっていたのでしょう。何しろお松は癇癪かんしゃくを起すと、半之丞の胸むなぐらをとって引きずり倒し、麦酒罎ビールびんで擲なぐりなどもしたものです。けれども半之丞はどう言う目に遇あっても、たいていは却かえって機嫌きげんをとっていました。もっとも前後にたった一度、お松がある別荘番の倅せがれと「お」の字町へ行ったとか聞いた時には別人のように怒おこったそうです。これもあるいは幾分か誇張があるかも知れません。けれども婆ばあさんの話したままを書けば、半之丞は(作者註。田園的でんえんてき嫉妬しっとの表白としてさもあらんとは思わるれども、この間あいだに割愛せざるべからざる数行すうぎょうあり)と言うことです。
荒々しい鮎の走りが竿から腕に、腕から身体の隅々まで伝はつて、それは彼の胸いつぱいに快い感動をひき起した。糸をひきよせるにしたがつて、二つの鮎のひらめきもつれる形が見えた。この二つの生き物は、まるでその持つ力以上の力といふやうなものに駆かられている風に、走り、浮き、旋回し、沈みしつゞけていた。手早く網ですくふ。パシヤパシヤ水が跳ねて、獲物は房一の手の中で強くビクビクと動きやまない。追鮎はまだ元気で、背の色も濃い。ふたゝびそいつを放すと、追鮎は又以前よりもはげしく流れの中央に向つて走り出す。まだすつかりさめ切らない興奮の快さに、ぢつと竿を見まもつたまゝ何か忘れたやうになつていると、やがて又あの強い引きがいきなり彼の腕を胸を荒々しくよびさます。